SAKAKI神社備忘録 > その他 > 深川七福神
ご開帳期間 |
1月1日〜15日 |
公式サイト |
7つの災いを除き、7つの福を与えると言われる七福神。
七草の間に巡拝し、その年の幸福を祈る七福神巡り。
深川七福神は明治末期に始まり、戦災などで一次中断していましたが、昭和45年に復活。
東京の七福神として人気を集めています。
歩いて約2時間(約4,5キロ)、周辺に史跡旧跡が多く、下町情緒にふれながら巡ることができます。
私のお薦めの巡り方は、都営新宿線・大江戸線森下駅で下車。
深川神明宮から門前仲町方面へ行き、最後に富岡八幡宮に行くのが良いかと思います。
最後が一番大きい神社ですと、何となくですが達成感があります。
映画やゲームの最後のボスが強いような感じで。
富岡八幡宮からすぐ帰るならば、門前仲町の駅がすぐありますし、飲食するならばお店が沢山あります。
疲れた時に人込みが嫌いな人は、逆の巡り方が良いかも?
約四百年前、現在の深川一帯は葦の生い茂る三角州で、誰も住んでいなかったそうです。
その頃、深川八郎右衛門(摂津の人)がこの地に移り住み、森下周辺の土地を開拓しました。
八郎右衛門は屋敷に小さな祠を建て、日頃から崇敬する伊勢神宮の大神さまのご分霊をお祀りしたそうです。
そして深川の発展とともに、八郎右衛門の屋敷の小さな祠も、いつしか深川総鎮守神明宮と呼ばれるようになりました。
徳川家康の関東入国から間もない慶長元年(1596)、当地を巡視されたおりに、深川八郎右衛門を呼び地名を尋ねました。
「まだ住む人も少なく地名もない」と答えると、家康は八郎右衛門の姓「深川」を地名とするよう命じました。
寿老神は、道教の神です。
寿老神は、白髪長寿の老人の姿をして、長寿のシンボルである鹿を伴っています。
延命長寿の福徳を授ける福神として信仰されてきました。
中国の明州奉化県(現浙江省)に実在した契此という高僧といわれています。
杖をたずさえ、いつも大きな袋を持ち、これに食べ物や日常品を入れて歩いた。
大きな団扇を手にし、大きく膨れた腹、よく子供に取り囲まれて親しまれてきました。
清廉潔白、大気度量を人々に授ける福神として信仰されるようになりました。
社寺 | 龍光院 |
所在地 | 東京都江東区三好2-7-5 |
宗派 | 浄土宗 |
慶長16(1611)年日本橋馬喰町に創建。
江戸の大火でたびたび焼失し、天和2(1682)年に深川へ移転。
その時に鬼門除けとして、境内東北角に毘沙門天を祭祀しました。
仏教の守護神である四天王のうち、北方を守る多聞天の別称。
護法と施福を兼ねる仏神として、勝負事(勇気、決断力を与え、財福を授ける福神)に利益があると信仰されています。
また日本では、仏教守護から転じて、国土守護の武神として、武将の間に信仰される様になりました。
近くに同じくらいの規模の小さい寺が多いので、龍光院は少し見つけづらいです。
ご開帳期間中はオレンジ色の「深川七福神」の幟が出ていると思うので、幟を目印に探してみて下さい。
社寺 | 円珠院 |
所在地 | 東京都江東区平野1-13-6 |
宗派 | 日蓮宗 |
享保の頃、旗本永見甲斐守の娘、お寄の方が起立しのち、円珠院殿妙献日寄大姉の法名で、享保15(1730)年に此の寺に葬られました。
享保5(1720)年11月13日に画かれた大黒天の掛軸があります。
また木造の大黒天、境内に石造の破顔大黒天が安置されています。
江戸時代から、深川の大黒天として有名だったそうです。
元々はヒンドゥー教のシヴァ神を本地とする憤怒神でしたが、悪神を退治した神話から仏教に取入れられました。
軍神・戦闘神とされます。
次第に招福の神となり、忿怒の相が笑顔の姿になり、台所財宝糧食をつかさどる神となりました。
また大黒天が、米俵に乗っているのは、実は男性性器をあらわしているとも言われています。
七福神の神様として有名な大黒様のTシャツ。
元々はヒンドゥー教の神様で、仏教に取り入れられ密教とともに日本に伝わりました。
日本の仏教では、真言宗や天台宗、日蓮宗などで信仰されました。
社寺 | 心行寺 |
所在地 | 東京都江東区深川2-16-7 |
宗派 | 浄土宗 |
公式サイト |
元和2(1616)年京橋八丁堀寺町に創立。
開山は観智国師の高弟である屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室、養源院殿です。
寛永10(1633)年、現在地である深川寺町に移転しました。
その後、関東大震災と昭和20年の戦災により二度も焼失。
昭和42年に現在の本堂が再建されました。
昭和50年に福禄寿が安置されている六角堂が完成しました。
福禄寿は、心行寺の六角堂に安置されています。
福禄寿は星宿の神、南十字星の化身と言われています。
長寿をつかさどる人望福徳の福神です。
福禄寿は、背丈が低く、頭が極めて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年と言われています。
杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え、円満な人格を人々に授ける福神です。
また、福(幸福)と禄(財)と寿(長命)の3つの福徳を授ける福神とも言われてきました。
冬木弁天堂から行くと、多分間違えて隣の「深川ゑんま堂」に入ってしまうと思います。
深川ゑんま堂の方が派手で目立ちます。
社寺 | 冬木弁天堂 |
所在地 | 東京都江東区冬木22-31 |
宗派 | 古義真言宗 |
冬木弁天堂は、木場の材木豪商・冬木弥平次が宝永2(1705)年、中央区茅場町から深川に屋敷を移転した際、邸内の大きな池のほとりに竹生島から移した弁財天を安置しました。
そのため今でもこの町を冬木町といいます。
弁財天はヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーが、仏教・神道に取り込まれた呼び名です。
元々は古代インドの河神です。
河の流れる音からの連想から音楽神とされ、福徳神、学芸神など幅広い性格を持っています。
経典に準拠した漢字表記は本来は「弁才天」です。
しかし日本では「才」が「財」の音に通じることから財宝神としての性格が付与され、「弁財天」と表記する場合も多く見られます。
日本では神道の神とも見なされています。
また、元来、インドの河神であることから、日本でも水辺、島、池など水に深い関係のある場所に祀られることが多いです。
「日本三大弁才天」と称される神奈川県江ノ島、滋賀県宝巌寺(竹生島)、広島県厳島神社はいずれも海や湖に面しています。
寛永4(1627)年、当時永代島と呼ばれていた小島に創建されました。
周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と居住地を開き、六万五百八坪の社有地を得ました。
江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受けました。
江戸最大の八幡様で、「深川の八幡様」として親しまれています。
恵比須神は、イザナギノミコトの第三子にあたる蛭子尊であるといわれ、全国のえびす信仰の中心は兵庫県西宮市の西宮神社です。
七福神の中では、唯一の日本古来の福の神です。
えびす神は烏帽子をかぶり、狩衣を着て、右手に釣竿を持ち、左手に鯛を抱き、岩の上に座った姿をしてます。
最初は、航海安全、漁業の神として信仰されてきました。
平安時代後期には市場の神として祀ったという記録が有り、鎌倉時代にも鶴岡八幡宮内に市神として、えびすを祀ったといわれています。
中世に商業が発展して、商売繁盛の神として、ひろく信仰されるようになりました。
江戸勧進相撲の発祥の地としても知られています。
江戸時代の相撲興業は京・大阪から始まりますが、 トラブルが多くしばしば禁令が出ていました。
その後禁令が緩み、貞享元(1684)年、幕府より春と秋の2場所の勧進相撲が許されます。
以降約100年間に渡って本場所が境内にて行われました。
明治維新以降は、幕府や大名家の加護を失った相撲界が、神道色を鮮明にすることで生き残りをはかったため、結びつきが強まりました。
現在も新横綱誕生のおりの奉納土俵入りなどの式典が執り行われる他、相撲にまつわる数々の石碑が建っています。
境内には江戸時代の測量家である伊能忠敬の像があります。
伊能忠敬は、当時深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住居を構え、測量の旅に出かける際は、安全祈願のために富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたそうです。
平成13年、縁のある富岡八幡宮に銅像が立てられました。
時々、幼子がこの銅像にびっくりして泣いています。
それぐらい良い出来です。
掲載情報は参拝時のものです。
最新のものではない可能性があります。